美術館に並ぶ聖母子像から、写真スタジオの明るいメモリーフォトまで、母と乳児の像はいつも幸福の象徴として私たちの前に現れます。厳かな聖母子像を前にすれば、その慈愛の眼差しに胸は静かに鎮まり、スタジオで撮られた光あふれる記念写真には、家庭的で柔和な母性の気配に安らぎを覚えます。こうして演出された母子の理想像は、知らぬ間に私たちの脳裏へ浸透し、思考をゆるやかに停止させます。そうして私たちは、刷り込まれた「幸福な母性」に無抵抗に頷いています。

子育てが一段落した今、ふと問いがよぎります。母性とは、一体何なのだろう。
私が知っている母たちは、賢母でも慈母でもありません。幸福を抱きながらも、血の通った複雑な女性たちです。

ボーヴォワールが「女は女に生まれるのではなく、女になるのだ」と語ったように、女性は母になるために生まれたわけではありません。それでも社会は、女性であること・妻であることの延長線上に、当然のように「母であること」を添え、変容を求めます。
ある日、女は突然「母」と呼ばれる存在になります。そしてお腹に命を宿したその瞬間から、どこからともなく穏やかで慈愛に満ちた母であることを期待され、ひとり女としての欲望や揺らぎをそっと抑え込むようになります。社会の期待の中で、「母」という役割へ形づくられていく一方、女性自身の理解や実感は置き去りのまま。
時折、私はふと考えます。マリアは受胎告知の日、それを本当に静かに受け入れられたのだろうかと。聖母とは、まるで月の地名のように遠く甘美で、冷たく、抽象の彼方にある存在なのかもしれません。観念のさらに遠くで、今日も多くの母たちは、目の前の小さな命に、淡々と自らを与え続けています。

DONOR
馬場磨貴 写真集
赤々舎    2026年発行   定価5,500円(税込)
B5判変形    120頁   上製本
(英訳別冊子付)
デザイン:寄藤文平+服部季海


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【写真冊子『まぼろし』について】

詩人の谷川俊太郎さんが、この本のために詩を書きおろしました。写真と詩の美しいコラボレーションと繊細な装丁。めくりながら「まぼろし」を、感じていただけると幸いです。

私は散歩をしながら、道端や民家の軒先で、時々花や植物をカメラに収めています。花を撮ると言ってもそれは人と同じで、一つの出会いであり自分の忘れていた感情の掘り起こしでもあります。シャッターを押したい衝動は一種の恋のようなものです。名も知らぬ花と向き合っていると、わたしの中から聞いたことのない声が聞こえてきます。 花はただそこにあるだけで美しく、黙って咲いては時がくればただ散っていくだけです。それなのになぜ人は枯れた花に、地面に落ちた花弁に惹かれるのでしょうか。
花を見て涙が出たり、優しい気持ちになったりするのは、花の性質だけでなく、人のこころのありようの問題なのでしょう。花は撮る人の、感情の鏡なのかもしれません。毎秒留まることなく、こころは揺らぎ消えていきます。
留める必要のない記憶が日々の大半で、それが私たちを形作っています。
これは花のポートレートであり、日記よりはるかに雄弁なこころの記録です。今はこの世から消え去った花たちとともに、一瞬蘇った鮮やかな過去の時間。それを私は”まぼろし”とよびます。

『まぼろし』(私家版) 2022年
サイズ:B5変形・205mm×205mm
定価:2,000円(税込み2,200円)
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風景のなかに現れる巨大な妊婦の愛と問いかけ

写真家 馬場磨貴は、自身のホームページなどで被写体となる妊婦さんを募集し、ヌードのポートレートを撮影してきました。 そして、「ある日、街を歩いていてふと空を見上げると、ビルの間から巨大な妊婦さんが現れました。その日から公園や線路の向こう側...いたるところに彼女たちは姿を見せました」(馬場の言葉より)。

妊婦さんが宿す生命の力や揺らぎが、身のまわりの風景と交わったところに、このシリーズ「We are here」は誕生したのです。うららかな春の公園や海辺、高層ビルの狭間、ドームの背後、そして福島や広島にも巨大な妊婦さんたちが現れます。

思い思いの姿で風景に溶け込み、呼吸し、私たち人間の存在へ優しく、ときに憂いを帯びた眼差しを向けてくれたりもします。巨大な妊婦さんは、その大きさや力でもって何かを傷つけたりするでしょうか? 生まれたままの姿で丸腰である彼女たちは、戦ったり破壊したりすることなく、ただこの世界に存在しているのです。

そして、雑踏や路地の物陰にふと等身大の妊婦さんを見るとき、その無防備で弱さを湛えた姿にはっとさせられます。 命は、生と死を同時に孕むものであることを、その陰りから思い起こされます。 「We are here」は、生きる力に貫かれた妊婦さんたちのシリーズであり、またこの地上に存在する私たち皆の姿でもあります。

風景は美しく愛おしく、そして切実な痛みをもって目の前にあります。巨大な妊婦さんの解き放たれた姿を折々に仰ぎ見ながら、私たちはある安心と指針を得るのかもしれません。

We are here
馬場磨貴 写真集
赤々舎 2016年発行 定価:4,000円+税
238×302mm 108頁 上製本
デザイン:寄藤文平+阿津侑三(文平銀座)


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本書は表紙が青・黄・赤 3種類ございます。
本分内容は同じです。

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熟睡した人々の姿を端正なポートレートで捉えた、人間の哀しみと尊厳を静かに浮かび上がらせる写真集

馬場は、「眠り」というその不可視の領域にひそかに忍び込む。 もはや誰のものでもなくなった顔、目の前の私に向けられているわけでもない顔、しかし同時に確かに私の目の前にある他ない顔。

息を潜めて見つめカメラを向ける写真家は、眠る人と同じく世界にたったひとりで放り出されている。 目の前の被写体と共有できるものは何ひとつないのだから。

そもそも共有できるものなど、はたして世界にあっただろうか。「私」と「あの人」を支える意味の世界は、昼間におけるあらゆる了解は、目の前で静かに崩れ去っていく。見ることとは、それほど絶望的な行為である。それでもなお、彼女は見続けるであろう。

夜明け前、うっすらと湿った静粛のなかで、眠りにおちたあの人を、こうして見つめることによってしか、私とあの人が「共にある」ことはありえないのだから。閉じられたまぶたの表と裏で、別々の夢を見、別々の感情を抱え、別々の体を生きる。

「私」と「あの人」を引き離し、かつ結びつける、ただひとつの交点としての、顔。これらの写真が抗しがたい甘美さを宿しているとすれば、それは、顔がこのような「誰のものでもないもの」として、つまりは顔そのものとして、今まさに私たちの目の前に立ち現れているからに他ならない。

「ABSENCE」 あとがきより 竹内万里子(写真評論家)

ABSENCE
馬場磨貴 写真集
蒼穹舎 2008年発行定価:3,600円
A4判変形 82頁 上製本 ダブルトーン
デザイン:原耕一 解説:竹内万里子


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